【映画2006】ミュンヘン
ワーナーマイカルシネマズ板橋2番スクリーンにてDSR鑑賞。ネタバレだから、覚悟せよ。
生きていくということは、記憶が歴史になることなのだ。
ミュンヘン五輪の開会式の記憶は情景とともに明確に残っている。深夜、東京から来た伯父と北九州の実家の2階で見た。家にテレビは3台あったが、カラーテレビはそのうち1台だけで、青空をバックにした点火台の映像は記憶にファイルされている。
小学4年生であるから、その後の事件を報じるニュースを見てもわからないことが多かったが、世界は血なまぐさく、この家は暖かく、祖父母や両親と「日本に生まれてよかったね」と大雑把な感想を語り合っていた。
ぼくが生きていたそのときに起こり、幼い感想をいっていたその事件をスピルバーグが作家性も豊かに描くということは、すでに事件が語られる歴史となったということだ。
歴史的事件は歴史ではない。ただの事件だ。しかし、普遍に通じる視点をもって語ることでそれは歴史となる。
「ミュンヘン」は圧倒的な映画だった。その瞬間と現在とが地続きであり、歴史はつまり生々しく、こうして正面から語ることは、祈りに通じ、祈りはまた、歴史を神話にする。
つかこうへいは「娘に語る祖国」で「祖国はあなた(=娘)です」と語ったが、まったく同じモチーフが、「ミュンヘン」でも執拗に語られている。字幕では家庭や家や祖国と訳されているが、すべてhomeであり、Homeであり、HOMEなのだ。ジョン・ウィリアムスのサントラまで、せつなくHOMEなんだよ。
この作品の重要なテーマがHOMEであり、イスラエル人にとってのやっと獲得したHOME。パレスチナ人にとっての奪われたHOME。死と死の応酬をするものの奪うべきHOMEであり、奪われるHOMEだ。情報屋の背後にも莫大なHOMEがある。描かれるセックスさえも求めるべきHOMEならば、性描写とともに、かならずオーバーラップする回想のミュンヘン事件もそんなHOMEを浮き彫りにする。
ワーナーマイカルのロゴが流れた後、ユニバーサルピクチャーのロゴが表示されるとともに、スクリーンサイズがビスタからシネスコに変化する。電動で幕の大きさが変わる機械音とともに、あの時代の空気が甦ってくる。
タイトルバックで、New York、Berlin、Tokyoなど、あまたの都市名の中からMunichが浮かび上がることから、まず、象徴的だ。Muinchは、たまさかのひとつなのだ。これはもう決然とした意志表明である。
そして、事件が語られる。シネスコのスクリーンサイズと手持ちカメラの芸術的な組み合わせに、くらくらとしてしまう。これは映画全編でそうなのだが、手持ちカメラとズームレンズはまさに70年代。さらに、電話爆破のシーンのヒチコックを髣髴とさせる長回しのカット構成など、DVDなら、繰り返し見返したくなるほどの官能さえともなう。
いままでのどんな映画よりもたくさんの「死」を見たが、最上のジャズの「アドリブ」でも聴くように、これだけの極上映像の「アドリブ」を伴っていれば、その死からも目を背けられない。なんという残酷な快感なのだろう。
手持ちカメラもズーミングも揺らぎをともなう。その揺らぎはドラマにもみられる。爆弾の量の失敗、敵と味方の思わぬ鉢合わせ、死をもたらすものの狼狽、撃たれても死に切れないものの行動、そのすべてが、揺らいでいる。揺らぎはすべて、人間の存在を感じさせる。
前の方の席で、笑っている外人もいたが、コメディとしか思えないシークエンスもある。「1941」や「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」、「ターミナル」で何度もコメディに挑戦しつつ、不発だったスピルバーグだが、うっかりと笑ってしまうシーンの数では、その諸作をしのいでいるかもしれない。
その笑いはすべて人間のいとなみだからこそ、自然発生する呼気なのだ。
おれはいままで、映画のライフタイムベスト10を選ぶとき、スピルバーグ作品は入れられなかった人間だが、前作の「宇宙戦争」と今度の「ミュンヘン」の両作とも、その候補に入れてもおかしくない。
そして、その2本の作品はafter911という同じコインの裏表である。ラストシーンでそそりたつあのビルの意味は、とてつもなく雄弁だ。
悲しいほどに歴史は地続きなのだ。そして、喪失の無限ループはつづく。
ミュンヘンの事件を見て「日本に生まれてよかったね」と語り合った祖父も祖母も父もすでに亡く、トリノ五輪の中継をひとり見ながら思う「ミュンヘン」は語られる歴史であり、おれのよく知る現実でもある。
