【回顧】角打ちだったころ
なにげなく検索していると、こんなページがでてきた。北九州角打ち文化研究会だそうだ。
現在ではセブンイレブンになっているが、実家は酒屋だった。国鉄八幡駅から歩いて3分。西鉄(路面)電車の「八幡駅前」電停と「西門前」電停にそれぞれ2分くらいで着く位置だ。
小売や酒の配達もしていたが、売り上げの多くは角打ちにあった。
角打ちは、最近の立ち飲みブームで、ちょっと知られるようになったことばだが、もともとは酒の小売店が、グラスによる量り売りで、酒を飲ませる形態である。
辞書には載っていなかったことばだ。ネットで調べてみると、福岡県の一部と東京の一部でのみ通用したことばのようだ。むかしは東京でも角打ちといって通じないことが多かった。
なにしろ八幡製鉄所の八幡である。お客さんの大部分は鉄をつくってきた人だ。
溶鉱炉の火は止められない。八幡製鐵所は3交代の24時間勤務だ。朝6時、午後2時、夜10時の3回、製鉄所の西門から吐き出される職工さんが、歩いて社宅に帰る前、電停から電車に乗る前、軽く立ち寄って飲んで帰る。
3~40人くらいの客で店が埋まることもあった。
朝は5時30分ごろに祖父母が店を開け、夜は11時30分ごろに両親が店を閉めた。
母から起こされ、学校に出かけるのは7時15分ごろだったが、そのころにはすでに朝の混雑は終わり、乾き物などのつまみを食べながら、コップ酒をあおるお客さんが10人くらいに減っていた。
うろ覚えだが、小学校のときはこんな感じの値段だったと思う。25度の焼酎は100ccで40円、200ccで80円。ビールの大瓶は220円、日本酒は1級200ccが150円、2級で120円だったかな。つまみは乾きものが30円、6Pチーズの1Pが50円、母が揚げていた魚のフライが60円。
物価を考慮しても圧倒的に安いよね。焼酎200ccは甲類だけど、わずか数分で200ccをあおり飲む男たちが多かったことに、いまさらながら驚く。
1升瓶入りの"ウィスキー"と称する甘い酒も売っていて、これが100ccで80円くらいだったかな?
大瓶三本くらいの容量のジャイアントとかいうビールの巨大ガラス瓶があって、これが出るとなぜかうれしかった。
キャッシュオンデリバリーでもいいのだけれど、基本的に客は最後に支払う。伝票なんてものはない。飲んだ分をカウンターにチョークで書くのだ。お会計といったら、筆算の要領で縦に並べた数字を足していく。
カウンターの表面は木目模様の化粧合板だったのだが、何度も書いては消すことを繰り返していたから、模様は薄れていた。チョークもそのままでは書きにくいから、水で濡らしていた。
使い終わったコップは水を溜めたシンクで、ざぶざぶと洗うだけ。洗剤を使ってきちんと洗うのは、1日2回くらいだった。自分の中で、角打ちの店に少し抵抗があるのは、このあたりの所業のおかげだったりするんだけどね。
作業服を着た人たちは焼酎を飲むことが多く、背広を着た人はビールを飲んでいた。小学校のころから店を手伝ったりもしたのだが、ビールを飲んでいた人は優しくいろいろ声をかけてくれるけど、焼酎を飲む人はなんとなくおっかなかった。
手伝っているとき、グラスに注ぐ途中で一升瓶の日本酒がなくなったので、銘柄のちがう日本酒を注ぎ足そうとしてお客さんに怒られたりもした。いまだったら、ぼくも怒るだろう。
でも、夜になると祖父が、銘柄なんてごっちゃにして、複数の一升瓶から、日本酒をひとつにまとめていたことは秘密だ。ひどい時代だ。日本酒には1級と2級と特級と剣菱しかない時代だ。いろんな銘柄はあったけれど、そういう時代だった。
燗の酒といえば、2級酒の入った一升瓶をまるごと、アルマイトの大きな薬缶にあけ、コンロで加熱したものを魔法瓶に入れて売っていた。
小学生のぼくは大きなビールの冷蔵庫が好きだった。ステンレス製で正方形の小さなドアが縦に3つ、横に4つ並んだ冷蔵庫。ドアのひとつを開け、頭をその中につっこんで、冷蔵庫の中のにおいをかぐのが好きだった。湿った木のにおいが冷たさをともなって、鼻腔に入ってくる刺激を楽しんでいた。
最大で4人くらい人を雇っていたのかな。そういうお兄ちゃんとたまに話すこともあったけど、カーブを曲がるとき、車体が斜めになるという新幹線の話で、ものすごく興奮したものだ。
酔客の喧嘩もたまにあった。じつは気が小さいくせに、店の酔っ払いには強い父ががんばっていた。でも半年に一回くらいは警官が来ていた。
やはり製鉄所に近く、駅や電停からも近かったので、売り上げも多かったようだ。母の話だが、角打ちの販売量では北九州でいちばんという時期も長くあったようだ。
1978年、八幡地区の高炉から火が消えた。圧延工場などは残っていたものの、角打ちの賑わいは消えていく。我が家も改築して角打ちスペースの三分の一を小売用のスペースにする。
家ではだれもワインなんて飲んでないのに、母がワインの説明をもっともらしくするのがおかしかった。
いまはとてもいいお酒を飲めるようになったのだが、自分の酒の原風景といえば、やはりこれだろう。
あのころの店内の写真はなぜ、ほとんど残っていないのだろう。ほかのどんなものより、あのころの光景を見たい。
色の剥げたカウンターの化粧合板。ステンレスのシンクに並んだ200ml表示のグラス。L字型のカウンターの真ん中に置かれたつまみ。母が使っていた業務用のフライヤー。素敵なにおいのした冷蔵庫。タイルを貼った床……。
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