【映画2006】ゲド戦記
宮崎吾朗は普通の人間なら、引き受けないようなシチュエーションをあえて引き受けて、がんばったのかもしれないけれど、音楽教室とかダンス教室の発表会につきあわされたような気まずさがある。お稽古事でお金を取ってはいけない。息子として決死の覚悟で父親の偉大さを証明して見せたのは天晴れなのだが……。
ワーナーマイカルシネマズ板橋8番THXスクリーンにて、SRD-EX鑑賞。
「ゲド戦記」は高校1年のときに読んだのかな。人生においてあらゆるRPGより「ゲド戦記」のほうが体験として早かった。テーブルトークやゲームブックをプレイしながら、これって2巻目の「壊れた腕輪」じゃねぇかと、感じていた。そんな時代だ。
とりわけ1、2、3巻は何度か読み返し、いまも強く印象に残っている。その一方で4巻、5巻は、かなり最近になって読んだので、話そのものはあまり覚えていない。しょうがないよね。
アニメ映画「ゲド戦記」は、1~4巻までの要素を再構成して作ったオリジナルストーリーの作品だ。最初は3、4巻を中心にと聞いていたのだが、1巻の重要な要素も入っている。
すでに酷評、悪評がいっぱいである。いくらなんでもすこしは褒めるところくらいあるだろうと思って見にいったのだが、褒めるところはなかった。
そして、つっこむ楽しさもない作品だった。
1~4話を再構成したのなら、それぞれのいいところどりをすればいいのに、なんで、こんなにつまらなくしたのかな。なにより、映画的でもない要素をピックアップし、興味深くもないネタを大事にしすぎ、テーマが迷い箸のようにゆらいでいた。そして、あまりにも長くかみすぎて、味がぬけきったガムのような作品だった。
脚本がだめだ。
物語の冒頭で、世界のバランスが崩れ、魔法が使えなくなり、竜は共食いを始め、家畜に疫病が出ていると提示される。本来なら、この災厄の回避が物語全体の大テーマになるはず。
つづいて、閣議を開いていた王がエディプスのごとき構図で息子、アレンに刺殺される。なぜ、アレンは父を殺したのか。そして、父を殺したことがアレンの行動にどのような影響をおよぼすのか。これが観客の注意を引くモチーフになるはず。
開巻15分で観客に提示されるこのテーマとモチーフだが、その後、展開されることはない。かけらもない。さらさらない。ゲドもアレンも脚本家も監督もプロデューサーもみんな忘れてしまったとしか思えない。
災厄の表現にしても、アレンを導くハイタカがだれもいなくなった農家を覗いて、それらしいことをいうだけだ。そもそも危機に瀕している世界がまるっきり表現されていないので、それを「調べに来た」大賢者ハイタカ(ゲド)の旅が、バックパッカーの貧乏旅行風味に堕している。大賢者が自分探しかよって、いいたくなる。
世界は危機に瀕しているらしいのに、畑仕事にいそしむハイタカとアレン。ああ、労働は尊いものですなぁ。
アレンが父を殺した謎。これが納得の行く形で解明されることはない。父を殺した苦悩も描かれない。映画の半ばで少女、テルーの「お父さんは悪い人だったの?」という問いかけに対して、「いい人だった」と答える。ぼくらは聞きたくなる「じゃあなんで、殺したんだよ?」と……。しかし、その答えはない。観客を混乱に導いて置き去りだ。
結局、危機に瀕している世界は救われたのか、それとも救われていないのか、あいまいなまま、映画は終わってしまうし、父親殺しの理由は最後まで解かれないままだ。
「命を大切にしないやつなんか、大嫌いだ!」と、アレンに叫ぶテルー。コマーシャルにもよく使われているが、そもそもだれの命を大切にすべきなのか、おれごときの読解力ではさっぱりわからない。なんとかがんばって考えたのだが、おそらく、自暴自棄になって、死地に身をさらすアレンに対する怒りを表現しているのだろう。
でも、もともと父親を殺して放浪しているアレンに「命を大切にしろ」なんて、おっしゃいましても戸惑うばかりだ。ものには順序ってものがあるでしょう。
言葉づかい全体が、こなれていない。やたらと4文字熟語や漢語表現を使いたがる癖がある。そのためダイアログ全体が説教くさいものになっている。
後半、生死について哲学っぽく語り合っているのだが、つまりすべては口先だけなのだ。そこに至るプロセスに、観客の共感を生む部分が一切ないから、たんなる観念論に終始している。
映画に若さがない。キャストの声、どれもがダウナー系で聞いていて、気が滅入る。
世界に魅力がない。きちんと世界と世界で生きるものを描こうという意志を持っていないため、書き割りの絵が並ぶだけになっている。
動画の喜びがない。つまり、観客に対するサービス精神もない。絵コンテ作りに迷ったとき、とりあえず、ロングを入れてみましたって作りだ。
アースシーの意味がない。なんというか、名前と魔法の関係もあるのだけれど、それをきちんと段階を追って描いていないから、魔法的世界観が必要じゃないと思えるんだよね。
ジブリの新作という大役を背負い、つっこまれないようにおそるおそる作ったのだが、失敗をおそれすぎて、ていねいに道の真ん中を歩こうとしたら、道そのものがちがっていた。そんな木を見て森を見ない作品だった。
ある記者会見で、ジブリの鈴木プロデューサーが、宮崎駿の「紅の豚」に「パイロット(そして整備士)に必要なものは、経験ではなく、インスピレーションだ」という名文句があるといい、そのインスピレーションを新人監督、宮崎吾朗に期待して、起用したといっていた。
しかし、宮崎吾朗には経験をしのぐほどのインスピレーションはどこにも見当たらなかった。それどころか、過去のアニメーション……というか、父親の過去作品という擬似「経験」にがんじがらめになって、インスピレーションのささやかな輝きさえも閉じ込めてしまった。
せっかくのチャンスの第一回監督作品なのだから、もっとセルフィッシュに、破天荒に作ればよかったのに……。
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