【映画2006】太陽
ワーナーマイカルシネマズ板橋10番スクリーンにて、SRD鑑賞。イッセー尾形が昭和天皇を演じ、終戦前後の等身大の天皇の姿を、ロシア人監督、アレクサンドル・ソクーロフが描いた。
当初、銀座シネパトスで単館公開だったが、ヒットしてくれたおかげで、ワーナーマイカルでも見られるようになった。公開さえも危ぶまれていた作品だけに、うれしいかぎり。
ロシア映画を劇場で観るのはひさしぶりだ!
ドラマは終戦直前、宮城地下の退避壕の一室でひとり朝食をとる天皇の姿から始まる。デリケートに隔離された環境は緊張感あふれる静謐そのもので、「現人神」として味わう世界最高の孤独を、くっきりと浮かびあがらせる。
ラジオ放送を通して間接的に聞く戦況、着替えを手伝う侍従は現人神に触れる緊張から、禿げた頭皮に脂汗を流す。その汗を凝視した天皇は自身の口に手をあて「臭い」という。まるで人間としての自分をえぐりだすように。
現人神である天皇が、終戦を契機として人間になっていくプロセスを軸に物語は進んでいく。
自分が人間であること。周囲は自分を神と見ていること。自分も祖父、明治天皇を神と見ていること。硬直した陸軍大臣の報告を聞いて生じた怒りさえも飲み込むしかない。ドアノブの開け方も満足に知らない天皇を見て、マッカーサーはまるで子供のようだなと語る。マッカーサーに対して、英語を話す天皇の一人称は三人称のthe Emperorだ。
これは世界史史上、稀に見る昭和天皇という存在をモチーフにした、フィクションである。だから戦争責任など、現代における千日手のように硬直化したテーマは登場しないし、ディテールの考証をつきつめるべき作品ではないのだろう。
劇中、天皇が夢見る東京大空襲はナマズの形をした爆撃機によるものだし、終戦後、天皇がマッカーサーに会うため、宮城(→皇居)をでたとき、目にする塵煙たなびく廃墟は、当時の東京ではなく、フィクションの産物と見ていいだろう。また、この映画にでるマッカーサーでさえ、言動はフィクションなのだ。
しかし事実ではなくても、真実を描くことはできる。
生まれながらの神であり、日本の元首であり、海洋生物学者であり、歯止めもなく戦争の泥沼に沈んでいく危険を知りながら、それを食い止める術のない昭和天皇。人間としてのとてつもない知性と知識と教養を有しながらも神であるからこそ、それを主張することができない。国民の多くが彼の名を口にしながら、死地に赴く。自分の意志に関わらず、崇拝される権威である。
神でなければつとまらないような役割を人間の身でつとめなければならぬ。昭和天皇は人間である。もちろんぼくらは、それを知っているが、映像の中にいるのは、矛盾をはらんだ多重人格が静かに封じ込められたとしか思えぬ、とてつもなく複雑な人間像である。
あらためて書くまでもないことだが、イッセー尾形の演技は卓抜で、エキセントリックという表現では収まりきれない昭和天皇の姿をわれわれに見せてくれる。
昭和天皇がつぶやくようにあきらめるように口にする「あ、そう!」は、カート・ヴォネガットの「So it goes」のように、凄みの聞いたニヒリズムとしてこころに響く。
ダーウィン、ナポレオン、リンカーンの小さな像が机の上に並んでいるのだが、マッカーサーと会った後、ナポレオンの像をそっとしまったり、マッカーサーから贈られたHERSHEY'Sチョコレートをめぐるちょっとしたやりとり、自分をチャップリンそっくりと呼ぶ米兵との交流など、ふんわりとした笑いもある。ピーター・セラーズの「チャンス」に通じるような味わいだ。
だからこそ、人間でありながら、神の任を負うことの孤独がきわだつのだ。
あえて内容は書かないけれど、ラストのセリフのインパクトはすさまじかった。神はつらいが、人間はもっとつらい。
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