【映画2006】父親たちの星条旗
ワーナーブラザース試写室にて鑑賞。
まさに"映画"を観たと思った。現時点で自分が映画に求めるものの核心がここにはある。
太平洋戦争最大の激戦地、硫黄島で撮られた一枚の写真。6人の兵士が占領の証として、星条旗を立てるその瞬間をとらえた写真は、長い戦争に疲れ果てたアメリカ国民に戦争終結への曙光となった。

↑原作の表紙
「父親たちの星条旗」は、この一枚の写真を核に、戦争と英雄、大義と現実、有名と無名といった諸相を端正なコントラストで浮かび上がらせた作品だ。
硫黄島の戦闘をアメリカ側と日本側の双方から描いた二部作の一作目である。
物語の冒頭、アメリカの片隅でひとりの老人が、末期のときを迎えようとしていた。階段に倒れ、一人の名前を口にする。「イギー」。それは家族のだれもが聞いたことのない名前だった。父親の人生を知るべく、息子が父の足跡をたどっていく。
そう、これはアメリカ映画を代表する「市民ケーン」と同じ構造の作品なのだ。ローズバッドのかわりに出されたイギーという名前は、父の硫黄島の戦友の名である。
映画は現代のアメリカ、激戦の硫黄島、アメリカ本土をまるで「スローターハウス5」のように行き来する。
主軸は戦時国債のプロモーションのために、旗を立てた英雄として祭りあげられ、全米各地を旅する3人の「ロードムービー」部分にあるのだが、ただ、旗をあげただけで英雄となり、圧倒的な喝采を受ける日々に、無慈悲な暴力が果てしなく続く硫黄島の激闘がフラッシュバックされていく。
戦場の映像はすさまじい。
70年代や80年代ならワンカットを抜き出すだけで、モンドムービーとして大成功しそうな映像が正面からとびこんでくる。ショッキングではあるが、目を背けることは許されない。
なぜなら、過剰な気負いもなく、無意味なけれんもなく、観るべきものとして、相応の確信を持って、その"絵"はあるのだから……。
そこから伝わるのは、狂気に逃げ込むことさえ許されない絶対の現実だ。
しかし、この地で狂気の種は確実に埋め込まれ、埋め込まれた狂気の種が芽吹くのは、戦火から遠い本土だった。
「許されざる者」から、イーストウッドの映画は最高のレンズで最高に合焦した写真のように、むだなく、ぶれなく、完璧な輪郭を描くものばかりだ。映画に過不足がない。
星条旗を掲揚した6人のうち、3人はその後の戦闘で死んだ。生き残り、本土で英雄あつかいされた3人のうちひとりは、ネイティブ・アメリカン……、インディアンだった。
センセーショナルに描写することはないが、カメラはそこにある差別をそのままのサイズでとらえる。
さらに写真に関する嘘があたえた残酷な結末をも見せてくれる。
国旗掲揚の写真にきちんと顔が映っている兵士はいない。顔のない兵士に英雄という顔をあたえたことから、死すべき人の身に本来ありえない試練がもたらされる。
映画の後半は涙が止まらない。試写室のあちこちでだれかがすすり泣く声が聞こえる。
アメリカのさまざまな情景と無名の英雄たちの人生がくっきりと胸に刻まれ、割り切れないものが割り切れないままに見えてきて、硬質ななにかで殴られたような衝撃を受けるのだ。
ケーンが真に手に入れたものを「ローズバッド」のキーワードで浮かび上がらせたように、「イギー」の一言がもたらしたものは、アメリカという国のひとつの顔だったのかもしれない。

「父親たちの星条旗」の原題は「Flags of Our Fathers」だ。われらの父たちの星条旗なのだ。だからこそ、「市民ケーン」をこえて、そのさきにつながる意志がある。
ちなみにこの映画のエンドロールはすごいよ。たとえ膀胱が破裂しそうになっても椅子から立てない。本気でやられたと思ったよ。
さて、この作品には、きちんとした顔と名前のある日本人はひとりも登場しない。おそらく次作「硫黄島からの手紙」とリンクするであろうシーンはいくつかあったが、その顔のない日本人たちが、どのように描かれるのか、それがとにかく待ち遠しい。


