【映画2006】硫黄島からの手紙
ワーナーブラザース試写室にて鑑賞。
戦争という熾烈なディスコミュニケーションの中で、かぼそく、せつないコミュニケーションの光明を輝かせる作品だ。
前作「父親たちの星条旗」がアメリカから見た硫黄島であり、今回の「硫黄島からの手紙」は日本から見た硫黄島の記録だ。
「父親たちの星条旗」のリサーチをしているとき、クリント・イーストウッドが発見した、栗林忠道中将は自身の留学、駐在体験から日本帝国陸軍の中でも最もアメリカをよく知る男だ。
そして、バロン西こと西竹一中佐は、1932年ロサンゼルスオリンピックの馬術で金メダルをとったことから、ハリウッドの社交界での人気者となった。
アメリカを最もよく知り、アメリカ人の友人も多い、このふたりが、アメリカ戦史でも突出した激戦地、硫黄島にいたことがイーストウッドの魂に火をつけたのだろうのだろう。
アメリカ視点の「父親たちの星条旗」では、端正かつ突き放した視点から、戦争、民衆、英雄、真実を過剰に思い入れることなく描写している。
その一方で「硫黄島からの手紙」にあるのは、穏やかでやさしさに満ちた視点なのだ。
ノンフィクション「散るぞ悲しき」や「「玉砕総指揮官」の絵手紙」から、硫黄島の激戦、そして、栗林中将の人柄は知っていた。また、オンライン上の「祖父の硫黄島戦闘体験記」や、NHKスペシャル「硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言~」から、そこでくりひろげられた地獄絵図の予習はほぼ、完了していた。また、前作で見た悪夢の戦場からして、いったいどのような辛苦がスクリーンに広げられるのか、覚悟して試写室に来た。
しかし、とても不思議なことだが、劣悪な環境の中で絶望的な戦いを強いられる日本人の悲惨な姿は姿は比較的あっさりと描かれていた。
もちろん、栗林中将の率直な姿勢や状況分析の的確さ、連合艦隊の壊滅、海空の支援がないこと、将兵の抵抗、援軍も来ないこと、食料と飲み水の枯渇、兵器弾薬の消耗など、描くべき要素はきちんと描いているのだが、阿鼻叫喚はなく、神々しい静けさがそれを覆っているのだ。
その中で、クローズアップされるのはコミュニケーションとディスコミュニケーションだ。
栗林中将とバロン西とのコミュニケーション、栗林中将と古参士官とのディスコミュニケーション、日本兵と残された家族との手紙を通じたコミュニケーション、投降した日本兵とアメリカ海兵隊員とのディスコミュニケーション、栗林中将やバロン西とアメリカ時代のコミュニケーション、大本営と栗林中将とのディスコミュニケーション。
そういった伝え合うもの、伝えられないものの明暗をくっきりと描いている。
「父親たちの星条旗」の予算が5,500万ドル。それにくらべて「硫黄島からの手紙」の予算が2,000万ドル。その予算の差はたしかに感じられる。
激戦の硫黄島、戦時債権集めの旅、現代と3つの時空間を行き来する「父親たちの星条旗」にくらべれば、栗林中将の硫黄島着任から戦死までをほぼリニアに描いた「硫黄島からの手紙」は、若干の回想シーンもあるものの、かかる予算も少なければ、プロット構成もシンプルである。
CGシーンや戦場のシーンは前作から借用した印象さえ強い。
あの「父親たちの星条旗」と対をなす作品だけに、どのような迫真の体験ができるかと期待したのだが、そこは肩透かしをくらったというのが正直な感想だ。
あれだけつらい思いをした硫黄島の英霊たちをいまいちど鞭打つことをイーストウッドが遠慮しているような感じなのだ。
さらにアンチクライマックスな構成である。悲しくせつないが、泣けない作品にもなっている。
さらに事実上の主役ともいえる応召兵、二宮和也が逆境においてもくじけず健康な存在感を見せている。この健やかな若さが、観客をいたずらに泣かせないこの映画の希望なのだ。
イーストウッドの主眼は戦争の悲惨さを過剰に描くことではなく、(アメリカ人にとっては)知られざる英雄の無念と未来へのことばをフィルムに託すことにある。


