【映画2007】どろろ
ワーナーマイカルシネマズ板橋8番スクリーンにてSRD鑑賞。
もちろん、原作漫画も読んでいるし、テレビアニメもみていた。基本的にみなさん、オリジナルストーリーを知っているという設定で書く。
TBS+柴咲コウという「日本沈没」タッグでかなり心配したのだが、「日本沈没」よりはまだみられるものになっていた。
「日本沈没」があのようなヘタレになった背景には、放送コンテンツに出資するというTBSの指針がある。映画を作っているのではなく、予算の多いTVドラマを作っているのだ。製作中もアバブ・ラインから、放送時のことを考える。映画なのに放送コードが適用される甘ったるさ。つまりそれが「日本沈没」で、皇室だとか、核兵器に対する遠慮になっているわけだ。
そのあたりのナーバスな感覚は、多少なりとも作り慣れているフジテレビとくらべてもかなりの硬直感がある。
「どろろ」にもそういった配慮は感じられたが、室町時代末期を舞台にした原作をまったく違う時空間設定にしたて、軟着陸させている。
冒頭で、「賢帝暦」とかいう見慣れぬ元号と3048年とかいう文字。日本の戦国時代の物語ではなく、ファンタジーだと宣言しているのだ。甲冑や刀など、きわめて日本的なアイテムを、オリエンタルファンタジーの枠組みで包んでいる。
時代考証から生まれるきわどい表現はここで回避している。たとえば、百鬼丸を作った育ての親ともいえる存在は、フランケンシュタイン博士の和製パロディみたいな人物となっている。戦乱で亡くなった子供の遺体を混ぜ合わせ、エレキテル(!)で生命をあたえるのだそうだ。
"エレキテル"には脱力したし、どろろが太鼓をたたきながら「あなたのお名前、なんてーの?」なんて節で歌うのは、「トニー谷かよ」とやりすぎだったが、まぁ、しょうがないんだろうね。
いずれにせよ、この設定変更で、ニュージーランドの原野や、さまざまな美術の整合性、そしてどろろを柴咲コウという成人女性にする改変までを「ファンタジーならしょうがない」というレベルでまとめてはいる。ファンタジーの使い方としては頭をかかえるのだが、まぁ、映画の用法としては許せるレベル。
妻夫木聡の百鬼丸はすばらしかった。たたずまい、歩き姿、アクションなど、若々しさと、苦悩が自然にあふれて、青春ロードムービーとしての魅力をきちんと出していた。
柴咲コウの甲高い声もだんだん慣れてきた。どうなることかと思ったが、エネルギッシュな演技の中で、存在感が浮かび上がり、キャスティング的には成功している。
チン・シウトンのアクションシーンはドラマチック。手塚治虫の漫画にありそうなユーモアまでアクションの中に織り込み、少ないセリフの中で、どろろと百鬼丸の交流をきちんと描いている。
ニュージーランドの景色はやはり美しい。ロケーションの効果は十分にあったといえる。
CGに関しては、シーンによって落差はある。見るこちら側にちょっとした優しさがあれば、OKといえるレベル。
うん。「日本沈没」にくらべたら、2,000倍くらいはよかったよ。ていうか、「日本沈没」がひど過ぎただけなんだけどね。
問題は回想シーンが多すぎること。
早めに妻夫木と柴咲を出したいのはわかるけれど、妻夫木と柴咲が出会ったあとに、柴咲が旅の琵琶法師に「あいつ、どんなやつなんだい?」ときくと、懇切丁寧に琵琶法師が解説する形で、例のフランケンシュタイン話を教えてくれる。
一方でどろろが、醍醐景光をうらむ理由を百鬼丸から「どうしてだ?」と、きかれると懇切丁寧に子供のころ、父を亡くした思い出を回想シーンで教えてくれる。
百鬼丸が母親と会ったときなどは、手と手をつないだハンドパワーで懇切丁寧に自分の過去が回想される。
そういった懇切丁寧な回想のシーンがあまりにも多すぎる。説明的に過ぎる。あらららら、また思い出してやがるよ! まただ。さっき、まとめてやっとけよ。そんな感じ。
醍醐景光が魔物と契約する。生まれたばかりの百鬼丸を河に流す。流された泥人形のような百鬼丸が、呪医師(のろいし)の手で育てられる。一方、どろろの父親が醍醐に殺される。そういったドラマをきちんと順番に見せて、そんなどろろと百鬼丸が出会うことにすればいい。これだけで冒頭30分をきっちり作ってくれれば、もう傑作保証されたも同然だ。
きちんと最初に呪われた空気を醸成しておけば、若者二人の旅が輝かしく明るいものになり、最後に父と対決する堂々たるクライマックスにつながるはずだ。
それがよれよれの回想多用になっているため、感動のレベルが浅くなる。
現在の冒頭のシーンや回想部分も練り直す必要があるだろう。戦場シーンでは醍醐の軍勢とそれ以外とが、混濁して描かれているため、醍醐景光がなぜ魔神と契約する必要があったのかがわからない。中井貴一が熱演しているが、セリフが説明調な上に、リズムがよくないために、間がもたない。
導入部の中井貴一に「たしかに妻はわが子をはらんでおる」なんて説明させなくても、原田美枝子の出産シーンをオーバーラップすれば、半分程度に縮められるはずだし、呪医師のシーンもいちいち「エレキテル」なんかいわなくても映像だけにすればいいだけだし、そういう作劇上のくどさが多すぎだ。
チン・シウトンのアクションシーンにくらべて、このあたり、かっこ悪いのだ。
このあたりをのちの回想シーンとひとつにして、きちんと作りこんでほしかった。
妖怪と戦って、48の体のパーツを集める百鬼丸の姿は、元祖"自分探し"みたいなものなのに、それが反復作業となっている感もある。
観客を頭の悪いものとして、口でいろいろ説明するひまがあったら、そういう感動をもっとくっきり描けばいいのに……。
クライマックスで親子愛というテーマをセリフで説明しすぎる。鯖目と妻のエピソードで、テーマに対する言及が不足している分、後半で帳尻を合わせようとしたのかな。
大雑把なサントラの使い方や、投げやりな効果音もちょっといかがなものかとは思う。娯楽作品を作るのなら、このあたりをきちんとしてほしい。
世界観の作りこみの甘さもいかがなものかと思う。この世界の技術レベルがはっきりしないし、醍醐景光の城など、とりあえず宮崎アニメの世界観からちょっと借りてきましたというニュアンスだ。日本とはちがうファンタジー世界を作るのなら、それでかまわないが、絵としておもしろいからという理由で、あれこれ作るのはぼちぼちやめようよ。
ただ、手塚治虫原作の実写映画でいちばんよくできた作品ではある。いままでろくなものがなかったから、その中のレベルで比較しているんだけどね。
とりあえず楽しめた。妻夫木とニュージーランドと、チン・シウトンのおかげだね。
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