【映画2007】蟲師
ワーナーマイカルシネマズ板橋9番スクリーンにてSRD鑑賞。
すみません。「蟲師(むしし)」という語感がいたずらに苦手です。「ウッシッシ」みたいなんですもの。だから、原作は読んでもいません。したがって、映画だけで語ります。
「老人Z」といい、「AKIRA」といい、「スチームボーイ」といい、なんでもかんでも大爆発の大混乱の大暴走にして、話をまとめる大友克洋とは思えない淡々とした映画ですよ。
山の中の蟲たちがいつスタンピードとか、チェーンリアクションとか、ドミノ効果を起こしてしまうかと、期待しつつ、不安に思いつつ、見ていたのだが、最初から最後まで、いぶし銀のような作品でした。
オダギリジョー演じる主人公のギンコは隻眼で髪の毛を長く伸ばし、見えない目を覆っているところから、ああ、ゲゲゲみたいな人ですかと思っていたら、一反木綿に乗って空は飛ばないし、ぬりかべは出てこないし、猫娘はひっかかないいし、ちがう作品ですか。ああ、そっちはウェンツ瑛士主演でゴールデンウィーク公開ですか、そうですか。
時系列は回想の入れ子になっている。回想の中に回想がある構造で、ギンコのいまと、ギンコの子供時代と、ギンコのいないときを語っているのが、まるで木霊のように響きあっている。
なにより美しく描かれてるのは山々である。ああ、蟲師というのは杣だとか、山窩だとか、木地師だとか、そういうののひとつなわけね。山から見た麓には電気の灯が見えているというという時代だから、明治中期からそれ以降というあたりなのだろう。少なくともこの時代の山から見れば、その光は彼方に見えるばかりだ。
そういう意味ではこれは、台湾の山地民族のストーリーつきドキュメンタリーのようであり、タイの少数民族の生活を垣間見ているような気さえする。
蟲といっても昆虫とはちがって、「お父さん、鼻からエクトプラズムが!」、「娘よ! それは鼻汁じゃ」というビジュアルの輝く気の流れみたいな存在だ。あ、すみません。鼻汁は失礼でした。CGをつかってて鼻汁よりはきれいです。その輝きが電灯にとってかわられそうな時代だということをくっきりと表現している。
これはつまり、あってもおかしくなかった……、しかし、日本人の誰もが忘れてしまった原風景へのノスタルジーをデリケートなビジュアルで描いた作品なんだね。ギンコ自身が自身の中に蟲と忘却というふたつの属性を持っていることからもそれは明白だ。
だからこそ、蟲師たちの寄り合いで話すことばはわからないし、彼らの動機とか、行動原理が理解しにくいのだろう。つまり、おれたち忘れちゃってるからよ。
なにか、ドラえもんの秘密道具「タイムテレビ」で現代から覗き込んでいるようなもどかしさがつきまとう。映像自体はハイビジョンの美しさなんだけど、「いま、なんていった?」とか、「え? それっていいことなの? 悪いことなの?」って問い直したくなるのだ。
あとでネットで見てわかったのだが、「こうだ」といって虹蛇だとか、「こうろう」といって虹郎だとか、「こうき」といって虹酒だけど、「こうみゃく」は虹脈でも鉱脈でもなく光脈だってのなんて、さっぱりわかりません。
こういうときは単語はわからないものと判断して、わかることばから世界を想像するしかないんだよね。日本語以外よくわからないけど、海外でひとり旅をするときみたいに。
「つっこみどころ満載」という凡庸な表現があるが、この映画は「つっこめないどころ満載」だ。いやもう終盤の展開など、大友克洋がこれまでつっこまれまくってきた復讐をしているとしか思えない。
【※携帯の人用心・ここから伏字】あの子供ってなに? なんで光るの? 結局、ぬいをどうしたの? 消えちゃったのって、蟲師が時代とともに音もなく去っていったという解釈でいいの【ここまで伏字】
蒼井優はここでもすばらしい。淡々としたドラマの流れが蒼井優が出てくると一気に色彩を増し、蒼井優の出番が終わると単色に帰るようだ。あの箸さばきはたまらんでした。
自分はちがう世界を見るのが好きだから、ちがう世界をたっぷりと味わえて、とても感心したけれど、だれにお奨めかといえば、なかなか、他人にすすめにくい映画だね。
あ、蒼井優ファンはぜひ、おいら、これから料理で菜箸を持つたびに、蒼井優ごっこしちゃうよ。


