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【読書】1976年のアントニオ猪木

 1976年だから、おれは中学2年生だ。その日、クラスがざわざわしていたのをよく覚えている。アントニオ猪木とモハメッド・アリが戦うのだ。6月26日は土曜日。

 半ドンの授業を終え、掃除を片付けたあと、学校からバスで戸畑駅に到着すると、試合はすでに始まっており、駅の待合室では大勢の人間が壁に設置されたテレビを見上げていた。

 戸畑駅から実家のある八幡駅まで、"汽車"なら、わずか10分くらいで到着する。"汽車"は1時間に4~5本程度出ていたのかな。最長でも30分もあれば、家でテレビを見られるはずだけれど、そんな余裕はなかった。


 まさか、15ラウンド、フルに戦うわけではないだろう。移動中に決定的瞬間を見逃してはたまらない。もちろん、家の中にビデオデッキなんてない時代だった。

 そのまま、見ていたのだが、のちにアリ・キックと呼ばれる、リングに寝そべった猪木の単調な攻撃の連続に、駅で見守っていた人の数は少しずつ減っていった。

 最初は待合室にぎっしりといた観衆も10ラウンドが過ぎるころには半分くらいになってしまっただろうか。試合が終わり、引き分けの結果が告げられたときには、割り切れぬ顔をした人々が、町やホームに散っていった。

 家に帰り、家でテレビを見ていたプロレス好きの弟と、「アリ側のルールにしてられらた」と、話をしたりもした。

 当日のNET系列は、昼の生放送だけでなく、夜のゴールデンタイムに録画放送をくりかえしたのだが、あの単調な試合をもう一度見る気はしなかった。

 水道橋博士のブログで知った柳澤健の「1976年のアントニオ猪木」を読んだ。この前に読んだプロレスものといえば、ミスター高橋こと、高橋輝男の「流血の魔術 最強の演技 ~すべてのプロレスはショーである~」だから、自分はたいしたプロレスファンではない。

 プロレスを熱心に見ていたのは、古舘伊知郎がテレビ朝日の中継をしていたころまでで、そのあとは、散発的にJWP以降の女子プロレスを見たり、WWEなど、アメプロをチラッと横目で見た程度だ。

 そんな雑なプロレスファンにとっても1976年は、猪木アリ戦が行われただけでなく、格闘技大国、日本の礎石となった1年だったことが明白にわかる一冊となっている。

 虚実いりみだれるプロレスという世界観を、怜悧なメスのような描写が切り裂いていく。いたずらな叙情を排し、綿密な取材と考証であの時代をくっきりと再構築している。

 ウィリアム・ルスカ戦、モハメッド・アリ戦、パク・ソンナン戦、アクラム・ペールワン戦と4つの戦いを追っていく。

 リアル・ファイトを志した柔道王に対して、フェイク・ファイト(プロレス)をやらせ、フェイク・ファイトと思って来日したアリにガチを強制し、アメリカで活躍する韓国のプロレス王を喧嘩ファイトで破壊し、プロレス気分で訪れたパキスタンでは、リアル・ファイトを強いられた結果、えげつない小技をまじえた攻撃で撃破する。

 猪木がリアル・ファイトをしたのは、この1年だけなのだ。

 なぜ、そんな領域に足を踏み出したのかの理由にも明白な答えを出している。全日本プロレスのジャイアント馬場にアメリカのプロモーターをおさられた結果、人気レスラーの供給に難があった新日本プロレスは、プロレスの文脈とはちがう対戦相手を必要としたのだ。

 このあたり、有名漫画家を使えないまま創刊し、自前の作家で独自の漫画世界を構築した「少年ジャンプ」を想起させる。

 あの時代、友情・努力・勝利のキーワードと、プロレスは最強の格闘技というキーワードが、それぞれで生まれたことがおもしろい。

 さらに売春婦のヒモやナイトクラブの用心棒を勤めながら、オリンピックの二冠王となったルスカの流転の人生や、アリとプロレスの浅からぬ因縁など、世界をプロレスという枠組みから見つめなおした語り口はゆるぎない。

 最強の肉体と技量を持ち、プロレスで稼ごうとしつつ、プロレスを理解できなかったルスカの一生はいとおしい。

 われわれ日本人は、モハメッド・アリにどれだけ感謝しなければいけないのか。

 センセーショナルに真相を暴くのではない、猪木という異形が生み出した1976年の人間ドラマが、ただ、胸に迫ってくる。

 あの戸畑駅の待合室の光景の意味がわかるというのは、すばらしいことだよね。
  

※こちらのエントリーもどうぞ。

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コメント

はじめまして、猪木アリ戦は、昼の放送も擬似生放送です。
昼の放送時間より早く試合が始まっていますよ。

■まさるさん
 あ、なんとなく本に書いてある事実関係と、自分の体験とで、タイムラグがあったような気がしたのですが、そういうことでしたか。教えていただき、ありがとうございます。

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