【映画2007】河童のクゥと夏休み
ワーナーマイカルシネマズ板橋11番スクリーンにてSRD鑑賞。
あえてジャンル分けするとなれば、「ET」とか「のび太の恐竜」同様、ボーイ・ミーツ・エイリアンものというべきか、ただ、ETとの違いは、相手が最初から日本語を解する河童であることと、特殊能力の片鱗こそ見せるものの、多くの人の心を打つ礼節をわきまえていることだろうか。
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」で、多くの人の注目を浴びた原恵一監督の新作だ。
まるで「しんちゃん」一家みたいな家族構成だ。春日部から東京の郊外、西武線の東久留米にいつの間にやら、引っ越したようで、主人公のしんちゃんならぬ、上原康一も微妙に女子を意識するお年頃になっている。
河童のクゥは代官に父親を殺された直後、発生した地震で、地割れの中に閉じ込められた。川べりの石の中で干上がっていたのを康一に見つかり、干しあわびやきくらげをもどすように、洗面台の水でよみがえった。コールドスリープから目覚めたみたいだ。そして、現代には仲間の河童は見つからない。
すべてのやりとりが、だれもが心当たりのある日常をベースにしている。河童という異物があるおかげで、むしろ「ごく普通のこと」がクローズアップして見える構成になっている。
行動すべての起点がゆるぎない日常にある。これが非常に大切なことなのだが、河童という圧倒的な異物さえも、当初は、野良犬や猫を飼いたい子どもと、世話を心配する母親という構図になぞらえられて、日常の中に配置されている。
その一方で、ストーリーの展開は、悪役を責めてそれでよしとする安易なメロドラマを避けている。四人の家族はとてもすばらしい人間なのだが、彼らの中の利己的な部分も当たり前の日常として描いている。
クゥのほかにも人間のことばを解する人間以外のものが、何体かでてくるのだけれど、そのすべてが、そんな人間の日常を責めず、人間を受け入れていることに、この映画の感動がある。
礼儀正しく、素直で好奇心あふれるクゥの存在は、かつての日本にいたような気がする、きちんと育てられた子どもの存在そのものなのだろう。
"かつての子ども"が"現代の子ども"と触れ合うことで、生まれる温度の居心地のよさは至上のもので、鑑賞中、この"夏休み"がずっと続くことを念じたくなった。
ドラマチックな問題提起だとかと、文句のつけようもない解決なんて存在しないシナリオだ。では映画的なカタルシスがないかといえば、きっちりあるんだよね。すべての解決は心の置き場所にある。それはぼくらの日常と変わらないことなんだ。
子供向けアニメーションで2時間18分はたしかに長いのだが、初号ではもっと長かったものを30分ほどカットしたとのこと。
今回見た本編では一部、気持ちのつながりに乱れがあり、ややリズムがゆるくなる部分もあったのだが、もしかしたら、長尺版のほうが、きちんとつながっており、むしろ、長さを感じさせないつくりになっていたのかもしれない。
クゥが泣くたび、おれも泣いたが、泣いてるのはおれだけじゃなかった。ここ一年みた映画の中では、客席の嗚咽がいちばん耳に入った作品だった。



コメント
はじめまして。
河童のクゥで一番感動したのがラストでクゥが「父ちゃん、ごめん、俺人間の友達ができたよ」というシーンです。
そう言って、クゥは涙を流します。涙を流した理由ですが管理人さんはなぜだと思いますか?
僕は、殺されたお父さんのことや康一一家や菊池のことなどさまざまなおもいがこみ上げてきたからだと思います。
涙を流した後に川面を風が吹きます。
これは、僕の推測なのですが、クゥのお父さんが吹かせたのではないかと思います(龍を呼んだのと同じように)。
「クゥ、人間の友達ができてよかったね」という意味を込めて。そう信じたいです。
そして、クゥと康一が再び会えることを信じたいです。
投稿者: 松田 | 2007年12月16日 01:45