【映画2008】魔法にかけられて
ワーナーマイカルシネマズ板橋10番スクリーンにてSRD鑑賞。
劇場の予告編ではさんざん見てきた作品だったけれど、まさか、こんなにすばらしいとは思わなかった。
今年、映画館で泣いたのは、「テラビシアにかける橋」についで、二度目だ。だめだ。おれはこういうのにとことん弱いんだ。
アニメと実写のクロスオーバーでいえば、「メリーポピンズ」だとか、「ロジャー・ラビット」だとか、市川崑監督版「火の鳥」だとか、「バンパイヤ」だとか、「アステカイザー」だとか、「錨を上げて」だとか、「FNS地球特捜隊ダイバスター」だとか、「恐竜探険隊ボーンフリー」だとか、いくらでもリストアップできる。
ファンタジー世界と現実世界のクロスオーバーでいえば、「スプラッシュ」だとか、「聖騎士ダンバイン」だとか、「ナルニア国物語」だとか、「ネバーエンディングストーリー」だとか、無数の作品が作られてきた。
アニメと実写、ファンタジーと現実のすべてをひとつに叩き込み、じつにいい仕事をした作品だ。奇をてらわず、さまざまな要素を正しくあつかった作品として、きわめてまっとうだ。新味はないかもしれないが、このタイプの作品に求められるものすべてがきちんと込められている。普通に見ていれば、ある程度、先も読めるし、予想通りに展開していくところも多いが、この手の話はそれでなくてはいけない。
世の中のすべてのフィクションは、すべて同工異曲なのだ。しかし、それが「ありがちな展開」に感じられるのは、製作者自身が作品を理解せず、作りこみが足りないためだ。このようにきちんと作られた作品は「ありがちな展開」などとは言わない。王道なのだ。
おとぎ話の世界「アンダレーシア」の住人、ジゼル姫は、ひと目で恋に落ちたエドワード王子との婚礼の直前、王子の継母であるところの魔女の陰謀にはまってしまう。幸せいっぱいから永遠の恋など、存在しない世界――現代のニューヨークに追放されてしまうのだ。
おとぎ話の世界では、ディズニーらしいフルアニメーションで描かれたジゼル姫が、ニューヨークでは、生身の人間になり、豪華なドレスもタイムズスクウェアでは邪魔なものに……。
ディズニーがつくったディズニーアニメのセルフパロディ作品であるのだが、パロディ作品としてすばらしいのは、ジゼル姫というキャラクターが決してぶれていないところにある。
一作ごとに劣化していく「シュレック」では、パロディへの強迫観念から、キャラクターがどんどんぶれてしまい、一作ごとにつまらなくなったが、この作品では、アニメ世界のキャラクターはアニメ世界ならではのモラルを守っているし、現実世界のキャラクターは現実世界の行動原理で動いている。
冒頭に上げた「メリーポピンズ」などのアニメ+実写作品では、同じ画面に2Dアニメと3Dが同居していたが、この作品ではごく一部を除いて混在を避けている。わずかに混在しているのは、魔法の鏡による魔女の監視と悪漢への指示のみだ。
骨太かつ、デリケートにその決まりを守っているから、どんな突飛なシーンを見せられても、映画の魔法が解けないのだ。
そしてこの世界のすべての空気をつかさどる音楽はアラン・メンケンである。おお! アラン・メンケンだよ。アラン・メンケンがディズニー・アニメに帰ってきたんだよ。
「リトル・マーメイド」、「美女と野獣」、「アラジン」、「ポカホンタス」、「ノートルダムの鐘」、「ヘラクレス」とディズニーアニメ最後の黄金時代を築いてきたアラン・メンケンの音楽をこんなに楽しいミュージカル・コメディの中で堪能できるなんて! (2004年に「ホーム・オン・ザ・レンジ/にぎやか農場を救え!」というDVDのみ発売日本未公開アニメの音楽はやっているけれど)
歌詞がまた、いいんだよね。エンディング前に流れる「Ever Ever After」なんて、もうきわめて正しい曲でぞくぞくしちゃいますよ。
ちなみに今年のアカデミー賞では主題歌賞に3曲がノミネート。候補作5曲中の三曲では、いかにアラン・メンケンでも票が割れてしまう。結果的に賞を逸してしまったのが、なんとも残念だ。
さらに特殊メークなど、いい仕事をしていると思っていたら、リック・ベーカー師匠の仕事ではないですか。
ドラゴンのエフェクトなど、たまらんものがあると思っていたら、SFXはフィル・ティペットのティペット・スタジオですか!
なにより、なにより、いい脚本だと思ったら、時間テーマの大傑作「タイムトラベラー/きのうから来た恋人」のビル・ケリーの仕事か。
キューバ危機のとき、核シェルターに入ったまま、35年間を地中で生活した夫婦。核シェルターの中で成長して、オールドファッションな道徳しか知らないブレンダン・フレイザーが、現代のロサンゼルスに現れるって……、おい! 「核シェルター」=「おとぎの国」とすれば、まったく同じ構造じゃないかっ! くーーーっ。やるねぇ。(ちなみに「タイムトラベラー」を知っていたら、にやりと笑うやりとりがある)
そして、ナレーションはジュリー・アンドリュースですか。いろんなところが匠の仕事だ。
ディズニー・プリンセスの魅力のエッセンスから、ジゼル姫というキャラクターは生まれている。現代ニューヨークで、人波に流され、ホームレスにティアラを奪われ、雨に降られ、だれからも理解されず、散々な目にあっても、気高い信念を曲げなかったジゼル姫が、ニューヨークで身につけたたったひとつの「気持ち」! その「気持ち」を思いつき、脚本にいれたとき、シナリオライターは快哉を叫んだだろう。
信念は曲げないけれど、ニューヨークに生きて、ジゼル姫は成長した。その切れ味がみごとに生きている。
一方、ジゼル姫を迎えた離婚弁護士ロバートは、おとぎ話的な世界を否定し、娘に渡す本もキュリー夫人など、女性科学者の伝記集だったりする。「キュリー夫人は一生懸命がんばって、放射線で死んじゃうんだよ」なんて、娘にかける言葉じゃない。
魔法の欠けた日々にあらわれたロバートは、ジゼル姫からまさに「魔法にかけられて」しまう。現代の魔法譚として卓抜なのは、ロバートとジゼル姫の王子と姫の役割をケースバイケースでたくみに交差させているところにある。
途中、セントラルパークを使ったミュージカルシーンでは、ジゼル姫が歌うことによって、パーク中を巻き込んでいくのだけれど、それこそがまさに魔法なのだ。そんな魔法の空間の中、たったひとり、歌わず、踊れずにいるロバート。現実のニューヨークにも魔法があるのに、それに気づくことができない。
ある事件を通して、現実の魔法を思い出したとき、レストランでなにげなくジゼルに見せたロバートのある行為を通して、魔法が思い出されたことを示すなんて、上品でていねいな仕事だなぁ。こんな仕事がいくつもある。
そして、こんな仕事を見せつけられたら、ほんとにたまらんものがあるぞ。セルフパロディかと思っていたら、心からすばらしいといえるセルフオマージュだったのだね。
※こちらのエントリーもどうぞ。

