【映画2008】ノーカントリー
ワーナーマイカルシネマズ板橋8番THXスクリーンにてSRD鑑賞。
アカデミー賞受賞作品とはいえ、コーエン兄弟監督のアートフィルムである。12スクリーン中、もっとも大きい8番で上映するワーナーマイカルシネマズにも驚いた。
1980年代前半、テキサスの荒野でライフルハンティングをしていたベトナム帰還兵、ルウェリン・モスが凄惨な殺人現場を見つけてしまう。数台のピックアップトラックに何体人間や犬の死体。ドラッグディーラーたちがなにかのトラブルで殺しあったらしい。現場に残されていた200万ドル入りのバッグを手にとって、自分の住むトレーラーハウスに持ち帰ったことから、事件ははじまる。
アントン・シガーは映画史に名を残すであろう絶対的な殺し屋だ。他人の都合や言い分などいっさい考えずに、独自の論理に従って、関わりあった人を殺していく。
彼の得物は屠殺用のガス銃だ。ガスボンベにつなぎ、圧搾空気を使って牛の脳みそにボルトを打ち込む道具。彼の存在を前にすれば、あらゆる人間は家畜と同様に屠られるのみである。この銃はひたすらに強力で、鉄の扉でもキーシリンダーごと、吹き飛ばしてしまう。
さらにもうひとり、トミー・リー・ジョーンズ演じるエド・トム・ベル保安官が登場する。彼は一連の現場に残された死体から、事件を追っていくのだが……。
この三者の追いつ追われつのドラマを描いていくわけだが、圧倒的な存在感を見せるのは殺し屋アントン・シガーである。
冒頭から、つぎつぎに殺しまくる。あまりの殺しぶりに、ふと立ち寄ったガスステーションの売店など、ただ老人と会話しているだけで、すさまじいサスペンスを呼ぶ。
映画のベースとなっているのは、時代に対する老保安官の嘆きだ。原題のNo Country for Old Menは、イェーツの作品の一節“That is no country for old men."からとられているとのことだが、住みにくくなった時代を体現する理解不能な存在が、殺し屋シガーなのだ。
構成としてみごとなのは、前半ではシガーが殺す段取りをきわめてていねいに描くのに対し、その段取りが観客の脳裏に刻まれたあとの後半では殺しそのものを一気に省略していくあたりだ。
「あ、いま、殺したな」、「これから殺されるんだな」と、理不尽なシガーの殺人を観客に理解させること。それこそが狂気の時代を映画的に芯から体験させることにつながっている。
その徐々に省略してくプロセスが、暴力と死の普遍へとつながっていく。
コーエン兄弟の映画としては、やはり、「ファーゴ」や「ミラーズ・クロッシング」が生理的な好みに合うけれど、「ノー・カントリー」の絶望さえ許さない渇きは、新たな高みを見せてくれる。
すごい映画だったなぁ。
と、ここから以下すべてが、ネタバレの感想です。反転してご覧ください。携帯の場合はそのまま、読めちゃうけどね。
この映画において、事実上なにもできず、無力なまま、保安官を引退するエド・トムだが、その会話のことごとくが、事件と時代に対する解説になっている。
かつては銃なしで保安官を勤められた時代があったという独白で始まるオープニング、処理中の牛に傷つけられる屠殺場についての会話、老いた叔父との残酷に殺された祖父の時代についての会話、そして、結末の妻との対話で、父親が出てくる夢についての会話。
いまの理不尽を嘆き、過去を美化しているが、過去においても理不尽な死は存在し、それはいつの時代にも運命という名で遍在していた。
国境でルウェリン・モスがベトナム帰還兵であることを話すやいなや、メキシコからの帰国を許可されるように、暴力に追われる男、ルウェリン・モスも戦争という暴力を身にまとった人間なのだ。
殺人に始まり、癌にいたるまで、見える形、聞く形でさまざまな死があふれた作品だ。そして、その死のすべてが理不尽なのだ。
劇中、最後の殺人をおかしたシガーが、交通事故を起こしたあと、子供と触れ合うシーンが印象的だ。冒頭の200万ドルと殺人者がおなじコインの裏表のように存在するように、シガー自身が無垢な子供たちに、金を渡したことから、ふたたび、不条理のタネは蒔かれたのである。金をめぐる子供たちの対話に未来の悲劇の種子が見えてくる。
そして重傷をおっているにもかかわらず、住宅街の中に消えていくシガーこそ、世界に理不尽な暴力が溶けこんでいく姿なのだ。
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