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【映画2008】ハンティング・パーティ

 ワーナー・マイカル・シネマズ 板橋1番スクリーンにてSRD鑑賞。

 ボスニアで民族浄化のためにイスラム教徒を大量に殺した指導者、カラジッチ。通称フォックスと呼ばれるこの男は、旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷から戦争犯罪人指定を受けているが、セルビア人地区のどこかに潜伏。いまだにつかまっていない。

  そのフォックスをハントするために、元敏腕戦場リポーターで現在は落魄の身のリチャード・ギアと、元戦場カメラマンで現在はネットワーク局のエグゼクティブになったテレンス・ハワードが再びタッグを組む話である。

 戦争犯罪人で、賞金まで出ていながら、各国政府も国連も国際司法裁判所も、形だけは追っているようなふりをして、それぞれの思惑から、本腰を入れてつかまえようとしない現実を告発するドラマなのだが、軽やかなコメディテーストさえ織り交ぜながら、エンターテインメント志向で描いている。

 それなりには楽しんでみたのだが、かれらの"フォックス・ハント"が最初から最後まで行きあたりばったりなのに驚いてしまう。むかし売れない歌手役のウォレン・ビーティとダスティン・ホフマンが内乱の国を旅する脱力コメディ「イシュタール」というのがあったけれど、どこかその空気にも似ている。

 映画の中で2回ほど、チャック・ノリスの「地獄のヒーロー」あたりのシーンが、男たちの蛮勇を揶揄するように挿入されるのだけれど、とってつけたような印象は否めない。

     

 国際的犯罪人に命がけで会ってインタビューし、あわよくば捕縛しようというのに、やっていることは無思慮な自殺行為のくりかえしだ。民族浄化の地をこのようなテーストで描くこと自体は非難しないが、もしもシニカルに描きたいのであれば、登場する人間の描き方を考えたほうがいい。

 ラスボスとしてカラジッチも登場しているが、悪人としてのステレオタイプ化があまりにも凡庸であり、アメリカを告発する姿勢を見せつつも、思考形式はアメリカ的単純化が自家撞着としか思えない。リチャード・ギアはこんな作品に出ちゃまずいでしょ。

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