【舞台・観劇】あした~愛の名言集
紀伊国屋ホールにて、「下町ダニーローズ」の公演「あした~愛の名言集」を鑑賞する。「下町ダニーローズ」は、シネマ落語でおなじみの立川志らくが率いる劇団だ。シネマ落語については以前、けーむらくんに教えてもらっていたので、迷わず声をかける。また、同窓会で集まったゆき男くんとミネンコくんも当日券で観劇した。
前日にはぬかりなく、今回の舞台のモチーフとなった赤川次郎原作、大林宣彦監督の映画「あした」も鑑賞している。準備万端だ。
嵐の夜、尾道市の沖合いで遭難した連絡船「呼子丸」。乗客は行方不明になってしまった。事故から3ヵ月後、残された家族や恋人のもとに乗客からのメッセージが届く。
「呼子浜で、今夜午前0時に」
ヤクザの親分、水泳選手、女子大生、船舶設計士……。さまざまな人々が、呼子浜の連絡船待合室に集まってくる。それが映画「あした」のストーリーだ。大林宣彦の新・尾道三部作の一本であり、高橋かおりや宝生舞のみずみずしい姿、在りし日の植木等の滋味あふれる演技もすばらしい。そんな映画をあらためて見直して、桟橋と待合室を舞台にした一幕ものの芝居のような作品だと思った。
舞台は映画とちがい、船頭姿の「神さま」の独白から始まる。90年代を舞台にした映画とは異なり、1958年を舞台にし、キャストも元軍人の幇間、戦争孤児、家出娘、歌手の卵に変更している。連絡船も渡し舟になった。
人々が渡し場に集まってくるまでを描く前半はつらかった。
なべおさみや北原佐和子、そして、立川志らくなど、個々人の演技はテンションも高く好感が持てる。しかし、テンポが悪く散漫な印象だ。映画の展開やセリフに敬意を払い、なぞるように話を進めていく。せっかく時代設定を変えたのに、うまみが出ていない。大きな連絡船を小さな渡し舟にしたことが、単純なスケールダウンに思える。
不思議な縁で人が集まる奇跡のみを普遍の要素として、もっとアレンジしてくれればいいのに、映画のセリフまでそっくりになぞっていることが物足りない。志らくという人の生真面目さはよくわかったけれど、オマージュを捧げることは、単純にコピーすることとはちがう。
そんなドラマが大きく動き出すのは、「神さま」の再登場と、渡し舟の到着からだ。
映画「黄泉がえり」以降、死者との対話にフォーカスした作品は多いけれど、大林宣彦の「あした」や「ふたり」は、その嚆矢ともいうべき作品である。永遠の別れを軸に逝くもの、残されるものがことばを交わすという状況は、致命的な間違いをおかさなければ、深い感動を呼ぶ。
さまざまな出典から、生きる意味、出会う意味、別れる意味を問いかけるようなフレーズが重なる。そのことばが、観客の涙を誘う。観客一人ひとりが自分の人生にあてはめ、深く思いをめぐらせていく。やはり、こういう話はたまらない。
そこにあるのは、すばらしい感動である。峰岸徹の代役として出演したなべおさみだが、やはり、ひとつの時代の空気を吸っている人はちがう。ことばに抜群の存在感を見せてくれる。
ただ、それだけにあとひとつ届かないもどかしさが募る。せっかく神さまを出したのに、説明役の狂言回しにとどめている。もったいない。原武昭彦という役者に、棒読みのようにセリフを話させている着想は卓抜で、神の存在という違和感を、結果的に納得させる。しかし、その神が死者を生者に会わせることを企図した部分で、より一層の飛躍が必要だったろう。
また、音楽の使い方がことごとくよろしくない。劇中、映画「イースターパレード」に触れたことから、クライマックスで映画の主題歌を流すのだが、十分にこなれた使い方をしていないから、無粋な照れと賢しさを感じてしまう。
この舞台に関しては、「狂気のファンタジーを作ろうとしている」、「狂気の世界の感動の見世物」と、志らくはブログなどでいっているが、狂気というより、行儀のよさが目立ってしまった。もっともっと、はじけてほしかった。
なんてことをいろいろ思って、劇場を出て、45歳の同級生の男ふたりと合流したら、ふたりとも「いやぁ泣いたよ」、「舞台っていいねぇ」、「この年になると、ああいうのに弱いね」などと、感動しまくっていた。うーん。賢しいのはこっちのほうでしたか。
« ROME | メイン | インディ・ジョーンズ/ク »
