【映画2008】ランボー 最後の戦場
立川シネマシティ1番スクリーンにてSRD鑑賞。
「ロッキー・ザ・ファイナル」で、ロッキーの人生にけじめをつけたスタローンが、我が内なるランボーに落とし前をつけるべくメガホンをとった作品だ。ランボーシリーズでは、意外なことにスタローン初監督作品。音楽はジェリー・ゴールドスミスが降板している。
やはりこういう映画はスピード感とキレのある重低音で見なければ……と、立川シネマシティで見たのだが、正解だった。画面いっぱいの爆発だとか、ブローニングM2機関銃だとか、M18クレイモア対人地雷だとか、大型爆弾トールボーイだとか、ありとあらゆる爆発暴力バリエーションをすさまじい音圧とともに体験できた。
IMDbによれば、映画全体で236人が殺されている。1分あたりになおすと2.59人が殺されているとのこと。(1作目はわずか4人、2作目では67人、3作目では108人だったから、当社費2.3倍ですか)
人体が舞い、飛び、転げ、砕け、散らばり、穿孔され……。ありとあらゆる壊され方をするのだから、すさまじい。
残虐さは「アポカリプト」を思い出させるが、重火器を使う分、生々しい痛みは感じられない。"カエル爆竹"の連続は、いっそすがすがしいくらいだ。
善意のボランティアが、無謀にもミャンマーの奥地に出かけたところ、まんまと軍に蹂躙され、たまさかタイにいたランボーが傭兵たちと基地に出かけていき、ぐちゃぐちゃにして救出するというほんとうにそれだけの話だ。
ランボーってば、最後に戦ったアフガニスタンから、どういう経緯があったのかわからないが、タイの奥地で蛇狩り業者になっている。やっぱり高温多湿が身体に合うのだろうか。
ややこしい状況は往々にして善意から生まれるものだが、それを責めるわけでもない。
口数の少ないスタローン映画というのもなんだか久しぶりなのだけれど、わずかなセリフの中でもきわめつけのひとつ「Live for nothing, or die for something」というのが、すなわちランボーの行動原理なのだ。この一言、男率90%の劇場で、すべての男たちのハートを中学生にしていた。
ベトナム、米国本土、ベトナム、アフガニスタンと、戦場ドランカーのランボーは、戦場二日酔いな日々を送っていた。おれが戦場に行っても世界は変わらないし、うっかり手出しすると、アフガンゲリラみたいに、アメリカをテロ攻撃する敵になっちゃうしな。そんなことを考えていたのかもしれない。
ところが、今回、ご縁があって、迎え酒ならぬ、迎え戦場で、生きる意味をとりもどしたりしちゃったりしてもう、このこの。ランボーはどうして戦場に行くのかな。だってそこに戦場があるからだよ。
正義だとか、偽善だとか、政治だとか、愛とか、ごたくとか、そんなものはどうでもよくて、その戦場には縁のあった人が捕らえられたから、その人を救うためにいってるだけなんだ。
「ランボー3」ではソ連に対するイデオロギー的なメッセージがあったのだが、今回はそれさえもなくなっている。人道的悪逆をなすミャンマー軍事政権に対する怒りさえない。街のどこかでヤク中が刃物を持って暴れているとき、知り合いがいれば助けるが、いなければなにもしない。ましてや麻薬を扱う悪の組織を根絶したいわけでもない。
ペキンパーの「ワイルドバンチ」から、さまざまなものを剥ぎ取って、21世紀にもってきたら、つまり「ランボー 最後の戦場」になってしまったってことだよね。
上映時間は90分だけれど、エンドロールがひたすら長い。ケータリングのサラダ係まで表示しているから、長くなるのはあたりまえだ。きっと完成フィルムの水増しにエンドロールを長くしたにちがいない。正味の映画は80分くらいしかないのではないか。
(ちなみにアメリカでの上映時間は93分。どこを切ったのかな?)
それでもいいのだ。ランボーだから。この映画は20世紀と21世紀の戦場を生き抜いてきたランボーが、戦争というおろかしい無間地獄をある種、諦念にも似た視線で見つめ、人肉の破壊という衝撃的な映像の氾濫で観客に見せつける作品なのだ。
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