さよならナショナル、そしてVHSの思い出
ナショナルのブランドがなくなるそうだが、パナソニックの冷蔵庫とか、パナソニックのエアコンとか、パナソニックの炊飯ジャーというのは落ち着かない。
オーディオビジュアル関係でパナソニック製品を買うことはあまりないのだが、そういえば、ナショナルのビデオデッキは買っていた。当時のナショナルVHSは魅力的だったのだ。
いろいろ思い出していたら、自分が買ってきたビデオデッキの年表を作りたくなった。
ナショナルのブランドがなくなるそうだが、パナソニックの冷蔵庫とか、パナソニックのエアコンとか、パナソニックの炊飯ジャーというのは落ち着かない。
オーディオビジュアル関係でパナソニック製品を買うことはあまりないのだが、そういえば、ナショナルのビデオデッキは買っていた。当時のナショナルVHSは魅力的だったのだ。
いろいろ思い出していたら、自分が買ってきたビデオデッキの年表を作りたくなった。
現在、MX-TVで再放送しているが、「ミラーマン」の放送は1971年の12月から1年間。当時、おれは小学三年生だった。裏では「シルバー仮面」を放映しており、特撮テレビ番組が同じ時間帯で放送されるという、家庭用VTRのない時代には悩ましいシチュエーションだった。
朝。エアロバイクをこぐ。そんなとき、GYAOやミランカの動画を見ることが多いのだが、最近、GYAOで「ふしぎの海のナディア」全話を公開中なので、公開期間中に全話見るべく、がんばっている。
ああ、世の中のすべての映像コンテンツがオンライン配信型になったらいいのに……。懐かしい時代劇とアニメとアメリカドラマが好きなとき、好きなだけ見られる。それが麗しい老後だ。
mixiでおにきさんから回ってきた高校生バトン。忘れているかと思ったら、意外と覚えていた。
■まず始めに高校名は?
福岡県立東筑高校
■この高校に入るためにしたことは?
普通の受験勉強。中学3年生のころは小説ばかり読んでいた。
メールのやりとりの中で「さびしい金曜の夜ですよ」と書いたら、「今日は部下と会食ですよ。いらっしゃいますか」と、セガの竹崎忠さんが誘ってくださった。さびしくなくなるのはうれしい。のこのこと南麻布の「KISSAKO」へ。
ワインダイニングバーといった感じだろうか。奥にあるふわふわのソファ席で、竹崎さんと3人の女性で座り、あれこれといただく。
女性の中でもたけうちさんは同年代で共通の話題が多い。旅行の話、映画の話、SF大会の話で盛りあがる。
そんな中、20代半ばの女性、じんないさんが「エスエフって、なんですか?」と鮮烈発言。同じ年ごろのもうひとりの女性、たけなかさんにもきいてみたのだが、「分からない」との玉突き衝撃!
同年代の男女三人は凍りつきつつも「エスエフってのはサイエンスフィクションの略で、ほら、スター・ウォーズとか、ああいう……」などと説明する。
「あ、SF映画ならわかりますよ」
SF映画とSFとはちがうものなのか。ますます困惑する。
「ほら、スーパーファミコンとかあるじゃないですか」と、自然に返される。たしかにスーパーファミコンもSFだ。
SFは遠くなったなぁ。
そのあと、AGAVEにいき、テキーラ・テースティング体験。さらに竹崎さんとふたりでAbbot's Choice。竹崎さんが帰ったあと、サッカーの開幕戦を最後までみるつもりだったが、ちょっと酔いすぎたので、帰宅。
コンビニに「LEE辛さ×30倍」が並んでいる。
20倍までは通年で売っている。30倍は夏だけの限定品だ。
こういうところに夏を感じる。
子供のときに初めてボンカレーを食べて以来、レトルトカレーのマインドコントロールは解けていない。
レトルトカレーが発売されるまで、たまに食べる缶詰のカレーが好きだった。ごちそうだった。
ボンカレーの誕生は昭和43年。5~6歳のころだ。「缶詰のカレーが食べたい」と駄々をこねた。
近所にある乾物屋に缶詰カレーを買いにいった母が持ち帰ったのが、ボンカレーだ。
「すごいのがあったよ」
母はおもしろがって、ぼくに不思議な袋を出した。
誕生時のボンカレーは白や銀ではなく、透明の袋だったそうだ。しかし、記憶の中では白い袋だ。おそらく発売開始直後ではなかったのだろう。
70年の大阪万博に行く前だったことは覚えている。
ぼくに見せたとき、すでに紙の箱はなかったから、店で買う際に説明を受けた母が、箱から出してしまったのだろう。
うまかった。
カップヌードルやカップライスが生まれたときの記憶もある。ボンカレーの誕生はその中でいちばん早いにもかかわらず、
夢のようにうまかった。
カップヌードルは当初、添付の透明プラスチックフォークで食べるというスタイルを推奨していたのだが、やたらに食べにくかった記憶がある。
カップライスは昭和51年ころに発売されていた。九州人ならよくご存知の三井グリーンランドにカップライスの自動販売機が設置してあった。
ここで食べたのが、カップライスとの初体験だった。たしかエビピラフ、ドライカレー、チャーハンの3種類のテーストがあったと思う。
弟や父親とカップを回しあい、すべての味を堪能した。
その後、何度か復活しては消えていったカップライスだが、いびつなまでにしょっぱくて、食べるだけで血圧が上がりそうなあの、嘘くさい味が大好きだった。
カップという形状のため、調味オイルと粉末調味料をうまく混ぜ合わせることが至難の業で、味がまだらになるのも、好きだった。
冷凍食品や常温保存のご飯のおかげで、消えてしまったと思うのだが、あの味はほんとうに懐かしい。日清食品はまた、
カップライスを売っていただきたい。
さて、ボンカレーとの遭遇以来、ほぼ40年、レトルトカレーはずっと食べている。年間100食くらいは食べていそうだから、4000食は食べているだろうな。1食180gとして、カレーだけで720tくらい食べているわけだ。インド象180匹分くらいだ。バカだな。グルメでもなんでもない。
ココイチではつねに6倍のカレーを食べる自分だが、LEEの30倍はぜんぜん平気だ。添付されている40倍にするスパイスをかけても苦しくない。おなかも痛くならない。
多分、今年の夏のあいだに20食くらい食べそうだ。
岡田真澄、米原万里、今村昌平の訃報が立て続けに……。そういう一日だ。
岡田真澄を思い出すときは「マグマ大使」のマモル少年(江木俊夫)のパパという世代だ。最近の岡田真澄だと、なぜか「さよならジュピター」が頭に浮かぶ。って、最近でもないか。
米原万里はショックだった。「不実な美女か貞淑な醜女か」が文庫に鳴って以来、著書がでればかならず読んでいた。饒舌さと論理、下ネタと洞察がすばらしい文章の中にあふれていた。あの文章が読めなくなるのはくやしい。
今村昌平で好きだったのは「にあんちゃん」と「復讐するは我にあり」。二日連続おっぱいの話題で恐縮だが、「復讐するは我にあり」の倍賞美津子のおっぱいは17歳の自分には強烈だった。当時の倍賞美津子が32歳だったなんて……。脳裏では熟女と認識していたのに、たった32歳だったなんて。人生は皮肉なものだ。
「にあんちゃん」の脚本は池田一朗(=隆慶一郎)だったと認識したのは映画のずっとあと、「影武者 徳川家康」がでて話題になったときだ。
お疲れさまといいたい人。くやしいよねといいたい人。心よりご冥福をお祈りしています。
なにげなく検索していると、こんなページがでてきた。北九州角打ち文化研究会だそうだ。
現在ではセブンイレブンになっているが、実家は酒屋だった。国鉄八幡駅から歩いて3分。西鉄(路面)電車の「八幡駅前」電停と「西門前」電停にそれぞれ2分くらいで着く位置だ。
小売や酒の配達もしていたが、売り上げの多くは角打ちにあった。
角打ちは、最近の立ち飲みブームで、ちょっと知られるようになったことばだが、もともとは酒の小売店が、グラスによる量り売りで、酒を飲ませる形態である。
辞書には載っていなかったことばだ。ネットで調べてみると、福岡県の一部と東京の一部でのみ通用したことばのようだ。むかしは東京でも角打ちといって通じないことが多かった。
なにしろ八幡製鉄所の八幡である。お客さんの大部分は鉄をつくってきた人だ。
溶鉱炉の火は止められない。八幡製鐵所は3交代の24時間勤務だ。朝6時、午後2時、夜10時の3回、製鉄所の西門から吐き出される職工さんが、歩いて社宅に帰る前、電停から電車に乗る前、軽く立ち寄って飲んで帰る。
3~40人くらいの客で店が埋まることもあった。
朝は5時30分ごろに祖父母が店を開け、夜は11時30分ごろに両親が店を閉めた。
母から起こされ、学校に出かけるのは7時15分ごろだったが、そのころにはすでに朝の混雑は終わり、乾き物などのつまみを食べながら、コップ酒をあおるお客さんが10人くらいに減っていた。
うろ覚えだが、小学校のときはこんな感じの値段だったと思う。25度の焼酎は100ccで40円、200ccで80円。ビールの大瓶は220円、日本酒は1級200ccが150円、2級で120円だったかな。つまみは乾きものが30円、6Pチーズの1Pが50円、母が揚げていた魚のフライが60円。
物価を考慮しても圧倒的に安いよね。焼酎200ccは甲類だけど、わずか数分で200ccをあおり飲む男たちが多かったことに、いまさらながら驚く。
1升瓶入りの"ウィスキー"と称する甘い酒も売っていて、これが100ccで80円くらいだったかな?
大瓶三本くらいの容量のジャイアントとかいうビールの巨大ガラス瓶があって、これが出るとなぜかうれしかった。
キャッシュオンデリバリーでもいいのだけれど、基本的に客は最後に支払う。伝票なんてものはない。飲んだ分をカウンターにチョークで書くのだ。お会計といったら、筆算の要領で縦に並べた数字を足していく。
カウンターの表面は木目模様の化粧合板だったのだが、何度も書いては消すことを繰り返していたから、模様は薄れていた。チョークもそのままでは書きにくいから、水で濡らしていた。
使い終わったコップは水を溜めたシンクで、ざぶざぶと洗うだけ。洗剤を使ってきちんと洗うのは、1日2回くらいだった。自分の中で、角打ちの店に少し抵抗があるのは、このあたりの所業のおかげだったりするんだけどね。
作業服を着た人たちは焼酎を飲むことが多く、背広を着た人はビールを飲んでいた。小学校のころから店を手伝ったりもしたのだが、ビールを飲んでいた人は優しくいろいろ声をかけてくれるけど、焼酎を飲む人はなんとなくおっかなかった。
手伝っているとき、グラスに注ぐ途中で一升瓶の日本酒がなくなったので、銘柄のちがう日本酒を注ぎ足そうとしてお客さんに怒られたりもした。いまだったら、ぼくも怒るだろう。
でも、夜になると祖父が、銘柄なんてごっちゃにして、複数の一升瓶から、日本酒をひとつにまとめていたことは秘密だ。ひどい時代だ。日本酒には1級と2級と特級と剣菱しかない時代だ。いろんな銘柄はあったけれど、そういう時代だった。
燗の酒といえば、2級酒の入った一升瓶をまるごと、アルマイトの大きな薬缶にあけ、コンロで加熱したものを魔法瓶に入れて売っていた。
小学生のぼくは大きなビールの冷蔵庫が好きだった。ステンレス製で正方形の小さなドアが縦に3つ、横に4つ並んだ冷蔵庫。ドアのひとつを開け、頭をその中につっこんで、冷蔵庫の中のにおいをかぐのが好きだった。湿った木のにおいが冷たさをともなって、鼻腔に入ってくる刺激を楽しんでいた。
最大で4人くらい人を雇っていたのかな。そういうお兄ちゃんとたまに話すこともあったけど、カーブを曲がるとき、車体が斜めになるという新幹線の話で、ものすごく興奮したものだ。
酔客の喧嘩もたまにあった。じつは気が小さいくせに、店の酔っ払いには強い父ががんばっていた。でも半年に一回くらいは警官が来ていた。
やはり製鉄所に近く、駅や電停からも近かったので、売り上げも多かったようだ。母の話だが、角打ちの販売量では北九州でいちばんという時期も長くあったようだ。
1978年、八幡地区の高炉から火が消えた。圧延工場などは残っていたものの、角打ちの賑わいは消えていく。我が家も改築して角打ちスペースの三分の一を小売用のスペースにする。
家ではだれもワインなんて飲んでないのに、母がワインの説明をもっともらしくするのがおかしかった。
いまはとてもいいお酒を飲めるようになったのだが、自分の酒の原風景といえば、やはりこれだろう。
あのころの店内の写真はなぜ、ほとんど残っていないのだろう。ほかのどんなものより、あのころの光景を見たい。
色の剥げたカウンターの化粧合板。ステンレスのシンクに並んだ200ml表示のグラス。L字型のカウンターの真ん中に置かれたつまみ。母が使っていた業務用のフライヤー。素敵なにおいのした冷蔵庫。タイルを貼った床……。
国土交通省が提供する国土情報ウェブマッピングシステムというページでは、古い日本各地の航空写真をとれる。 そうとなったら、自分が住んでいた北九州市の八幡駅前付近の航空写真をチェックするのは当然だろう。
こちらは1974年の八幡駅前付近。部分的に四角くマーキングしているのは、実家の位置。よかったら、クリックして大きくしてみてください。
こちらはProAtlas航空写真IIからとった、21世紀の八幡駅前。こちらもクリックすると大きな地図が……。
1974年といえば、ぼくが小学6年生のころ。小松左京や筒井康隆といった作家の挿絵のない文庫本を読み始めたころだ。
1974年の地図の左上のあたりには、八幡製鉄所の西門があり、東西に伸びる道路には、路面電車が走っていた。また、左下のあたりには、製鉄の社宅がずらりと並んでいた。もちろん、駅の北のほうには八幡製鉄所がある。これらは航空写真からも見てとれる。
30年後には、いったん更地になった、製鉄所付近にヤマダ電機ができ、製鉄の社宅あたりは、九州国際大学のキャンパスが広がっている。ずいぶん変わったものだ。
リアル・シムシティだね。じっと目を凝らしていると、30年前の航空写真には、自分が生きて歩いている気がしてしまう。