【映画2006】ブロークバック・マウンテン
ワーナーマイカルシネマズ板橋3番スクリーンにてSRD鑑賞。
やられた! 後半は滂沱の涙である。事前情報どおり、ホモのカウボーイ物語ではあるのだけれど、これはあらかじめ喪失が決定づけられたせつない愛情の物語だ。20年にわたるホモの遠距離恋愛ものといってもいいかもしれない。
まずは書いておこう。映像を見ていて、肛門にチンコがつっこまれるのは、なんとかぎりぎり我慢できそうだが、男とベロチューはできないと思ったよ。ちなみに自分が男の肛門につっこめるかといえば、不潔っぽくていやだ。
でも、おれの歴史の中で、チンコをつっこまれたことはないが、男の舌が口の中に入ってきたことはある。若き日のあれやこれやとはいえ、いまだにちょっとおぞましい。
なんでこんなことを書いたかといえば、自分の中に、そういう"け"があるかどうかのカミングアウトなんだけど、まぁ、あんまり意味がないかもしれないね。
鑑賞中に思い出されたのは「リバー・ランズ・スルー・イット」であり、「火垂るの墓」だったりもした。
どれも性格やトラウマや趣味志向や心の問題など、さまざまな理由で現実と折り合いがつけられない人間……、居場所がない人間が、聖地を求め、そこに身を潜めようとするドラマだ。
イニス・デルマーとジャック・ツイスト、ふたりの主人公のうち、ジャック・ツイストにその"ケ"があることは、物語の冒頭でさりげなく示される。仕事を求めて、牧場主の事務所前で待つ、ふたり。この時点でおたがいを知っているわけではない。イニスを見るデニスの目線、そして、クルマのドアミラーを使って、ヒゲをあたる仕種からも、この先の展開を予感させている。
婚約者もいて、その"ケ"がなさそうなイニスだが、幼少期に受けたトラウマから、裏返しの形で、そのことを意識していたことが示される。
そして、あらゆる局面において、繰り返し、提示されるモチーフは孤独であり、疎外感である。
人里離れた「ブロークバック・マウンテン」で、数ヶ月にわたって、羊の放牧をするふたり。このような隔離状況で、そうなっちゃうのは仕方がないことかもしれない。
人を飲み込むような自然の中での孤独が、もたらした「事件」なのだろう。そしてその「事件」のもたらした実感が、その後、20年にわたって、ふたりを支配する。
マッチョなカウボーイの世界観の中で、決して他人に知られてはいけない秘密の共有である。その秘密を持っていることで、ふたりのかかえる孤独と愛が、同時に深まっていく。この悲劇的な構図は、二人をとりまく世界にも影響を及ぼしていく。
イニスの妻、アルマは現実的な生き方をする女だが、夫とほかの男が激しくキスしあうのを見て、人生そのものが袋小路になってしまう。
作品の中で、同性愛に対する直接的な差別が描かれることはほとんどなかった。それだけに、主人公のふたりが、そうなってしまった自分自身を戸惑いつつ「差別」をしていくプロセスが、せつない。
夫婦のセックスの最中に、育児費用を考え「避妊して」というアルマに、「おれの子がいらなかったら、二度とセックスはしない」という、イニス。
イニスのことばは、「孤独への恐れ」がいわせたものだろう。家族を作るためのセックス……。そして、普通の生活を望む一方で、ジャックへの思慕に苛まれるシチュエーションが、このような最後通告となったのだろう。
一方、テキサスで農業機械ディーラーの娘、ラリーンとの結婚。逆玉に乗ったジャックの境遇も幸せとはいえない。大卒の娘と貧乏牧童という不釣合いな結婚だ。義父はジャックを軽んじる。年月がたつにつれ、華美になっていくラリーンの姿が、背景のドラマを物語る。
そんな埋められることのない二人の男の孤独が共鳴して、映画の感動となる。
悲恋の構図に、孤独という起伏が、コントラストをつけているのだ。
妻、娘、仕事、薄皮をはぐように、人生を失っていくイニス。住んでいる家はどんどん貧相になっていく。ラストシーンのトレーラーハウスでの、ラストのカットは映画のちからを感じさせるものだった。
ところで、今回はホモ話だから、いい女は出ないかなと思っていたのだが、ラリーン役のアン・ハサウェイがとてもよかった。往年のケリー・プレストン系の方向になっているとは意外だが、ちょっとうれしい。
