【映画2006】武士の一分
ワーナーマイカルシネマズ板橋1番スクリーンにてSRD鑑賞。ネタバレもあり。
もちろんラストシーンでは幸せな涙があふれたのであるが、この映画の見どころは前半から中盤にかけてだ。
「盲目になった毒見役の武士が、妻を寝とった藩の上役と果し合いをする」というのが、ストーリーのすべてなのだが、妻の不義を知って、離縁を申しつけるまでの緻密なシナリオと繊細な描写がすばらしい。
光を失ったあと、縁側の向こうにはたくさんの蛍。そんな蛍舞う中での夕餉のシーンで、「そういえば、そろそろ蛍が飛ぶころだ。蛍は見えるか」と、妻に問いかける武士。蛍はつい鼻さきで飛んでいる。その問いに対して「いいえ。蛍はまだみたいですね」と答える妻。
夫に対する思いやりと、いつか目が見えるとしたら夫とともに見たいという願い。夫を思いやるためについた嘘。その嘘が後の悲劇の予兆となる。
すべてがそういうデリケートさから生まれている作品なのだ。
幼なじみの夫婦であるから、相当長いつきあいである。だが、それぞれが初々しくも相手を思いやる気持ちをすさまじく抑制の効かせて描いているから、純粋に感じいってしまう。
木村拓哉だけれど、「ハウルの動く城」で声優をやったときよりも、キムタク臭さを感じずにすんだ。
「もうキムタク、お疲れさま」って気分の人は、それなりに多いだろう。おれもちょっとそんな気がしていたのだが、「キムタク、まだいけるかも」って気分になった。
なにより、この作品の中では、下級武士の三村のセリフをしゃべる木村拓哉ではなく、下級武士の三村がきちんと息づいていた。それは映画全体の抑制の効いたトーンのせいであり、圧倒的に輝く壇れいのおかげもある。
壇れいという人はさっぱり知らなかったのだが、宝塚の娘役トップ出身というを聞いてのはなるほどと思ったよ。娘役というのは、男役の艶を引き出す受けの演技のスペシャリストなのだ。だからこそ、木村拓哉から、あの時代にもこんな武士はいたろうなという説得力を引き出している。
火のし(炭火アイロン)や鳥かご、毒見の次第や厨房の様子など、江戸時代ならではの風俗を丹念に織り交ぜながら、きちんとした意味をつけていくシナリオに、映像の心象をきちんと裏づけていく効果音もただものではない。
不義を告白する妻とふすまをあいだに挟んだやりとりがあるのだが、そのふすまがふたりをさえぎる長城のように見えるのだから、たまらない。
映画の後半、不義の発覚からカタルシスとしての果し合いにいたるシーンは、くっきりと描かれていて、過不足がない。だけれど、夫婦の豊かな情愛をえがく前半にくらべたら、どのように書いても累計的となり、やや平板に思えてしまう。
もしかしたら、画面から壇れいが退場したせいもあるかもしれないけどね。
こういうきちんとした映画は見てて、うれしくなるね。
奇跡の出会いものともいうべき「たそがれ清兵衛」の域には達していないとは思うのだが、それでも今年見た日本映画の中では、映画構成の完成度という点でトップクラスで、山田洋次という手だれには、まったくおそれいった。
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