【映画2007】それでもボクはやってない
ワーナーマイカルシネマズ板橋2番スクリーンにてSRD鑑賞。「Shall we ダンス?」以来の沈黙を破った周防正行の最新監督作品だ。
見ていていちばん近い印象の映画といえば、911の際、テロリストに乗っとられた旅客機を描く「ユナイテッド93」だった。
あの旅客機に乗った理由は偶然である。痴漢冤罪裁判の法廷に立つのも偶然である。そして、そんな偶然が生み出す理不尽かつ絶望的な閉塞状況の中、戦わなければ生き残れない。
こりゃもうひたすらに、おもしろかった。
「日本の裁判で有罪率は99.9パーセントといってますが、大部分の裁判は被告が最初から有罪を認めているんです。だから、有罪を否認している裁判だけなら、だいぶちがうんです」
「そういう裁判で無罪はどれくらいになるんですか」
「3%です」
思わず笑ってしまったシーンだ。
北朝鮮など独裁国家の選挙では投票率が100%に近い。選挙だろうが、裁判だろうが、100%に近い数字には嘘が含まれている。
ちなみにアメリカでの有罪率は78%程度とのこと。無罪になることがそれなりにあるのだ。これは日本とアメリカで起訴のルールがちがうためでもある。アメリカでは起訴して裁判所に送り込んだ時点で、(被告が否認している場合)有罪が51%程度あればいいとされている。
日本では起訴の時点で検察がかなりのフィルターをかけている。勝てると思った起訴が前提になっているために、このような数字が出ている。
アメリカでは裁判所が有罪か無罪かを判定するのに、日本では事実上、検察が判断しているわけだ。
痴漢冤罪事件はそういう日本の裁判制度のモデルケースだ。
いったん起訴といわれれば、ほぼ間違いなく有罪になってしまう。やってもいない罪でもやったと認めて、やってもないことを反省すれば、金で片がつくのが日本なのだ。
正義が勝つのか。真実はわかってもらえるのか。
日本でも法廷ものはいくつもあった。「真昼の暗黒」、「39 刑法第三十九条」、「12人の優しい日本人」、「事件」。多くは黒澤明の「羅生門」のように藪の中にある真実を問いつめていく作品になっている。
そんななかで、この映画はひたすらに(警察、検察、裁判)という司法制度と真実の距離感を描いていく。緻密なリサーチから生まれるリアル・サスペンス感覚も「ユナイテッド93」を思い出させる。
じつは日本人の心情で、裁判の理想像といえば、遠山金四郎や、大岡越前の裁きにあるのではないか。
遠山金四郎なんて、刑事、検事、判事をすべて一人がやっている悪夢のような存在だ。
もちろん、潔癖なまでに悪は正さなければいけないという思いは、自分の中にもある。しかし人間は間違えるものだ。もしも悪とみなされた人間が、それを否定できない悪夢がどれほどのものか。
ネット上では、数年前の「御殿場事件」一審判決の記憶が新しい。ご存じない方は、こちらの動画で第二部以降をご覧になるといい。
なによりも濃密な脚本だ。証拠、目撃者、再現ビデオ、調書の不見当、裁判官の交代など、さまざまな要素が絡み合い、希望とか、失望とか、怒りとか、もういろんな感情が交錯する。
それが抜群におもしろい。
ほとんど音楽を使わない構成など、全体に抑制の効いた作品なのだが、さまざまなレベルで頭の中がしびれるように興奮していく。国家が自分を否定しようとするとき、どのように戦えばいいのか。
いろいろとディテールは語りたいけど、それは劇場で見てもらうしかない。
エンドロールでは、もうなんともしれない感情が浮かび上がってきて、涙ぐんでしまった。それは、いわゆる感動の涙ってやつではないのだが、いろんな感情がわきあがってくる。
そう「ユナイテッド93」をみたとき、自分はたしかにあの便に乗っていた実感があったのだが、この映画でも被告になった自分を感じてしまった。
日本という社会に潜む恐怖を真正面から描いたホラーだ。推定無罪という人類の知恵を推定有罪という悪夢にしてしまうこの国のいびつさが自分の問題として、びんびんに響き、映画を見たあとは興奮して寝つけなかった。
「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という法格言が冒頭に示される。まさにその意味を問う作品だ。その問うべき対象は国家や司法だけではなく、ぼくやあなた、この国に生きている人間なのだ。
だからこそ「満員電車こええ」という浅薄な感想ではなく、「いまの日本の司法は怖い」と、思いたい。
ちなみにこれとくらべたら「愛の流刑地」の裁判は、日本じゃない別の国の裁判だね。「愛の流刑地」が勝っているのはハセキョーの悩殺検事だけ。瀬戸朝香の弁護士じゃあの色気はないもんなぁ。
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