【映画2007】東京タワー オカンとボクと、時々、オトン
ワーナーマイカルシネマズ板橋6番スクリーンにてSRD鑑賞。
この映画の原作のリリーフランキーはぼくより1年下で、北九州市小倉区出身だし、脚本の松尾スズキはぼくと同い年で北九州市八幡区出身だ。同じころの同じ町を知っているふたりが、北九州や筑豊、そして、あのころの東京を舞台にした映画を作るとなれば、期待せずにはいられない。
なんとなく照れくさくて、原作はなかなか読まなかったのだが、昨年の11月にみた大泉洋主演の、フジテレビスペシャル版があまりにも困った中身で、怒りのあまり、「こんなもんじゃないはずだ(読んでないけど)」と、翌日に買って、読んで大変なことになってしまった。
なるほど、記憶色と色彩のちがう炭鉱町や東京、落ち着かない筑豊弁はもとより、母と息子の距離感など、違和感がありすぎたドラマは、阿佐ヶ谷生まれで富山で育った久世光彦(企画)の世界観とはちがうのかもしれない。なによりもオカンが田中裕子というのが、きつかったのだろう。
つづくテレビドラマ・シリーズも速水もこみちと、倍賞美津子というキャスティングに女性脚本家。女性に受けるドラマにしようとしていたのかもしれないけれど、息子が母親に送るラブレターという本質からは遠く、なによりも、長編ではなく短編に近いドラマの構造を引き伸ばしたつらさが出ていた。
映画版はほんとうによかった。まず、ふたつのテレビ作品には薄かった上京ベクトルというか、故郷を出たいベクトルがきちんとあった。
福岡出身の友人と話すことがあるのだけれど、福岡の人間でも大学など、自身の意思で東京にでてきたやつと、そのまま福岡に残るやつでは人間性がちがうのだ。もちろん、どっちが上とかではないけれど、漠然とした、ここにいたくない……という焦燥感がきちんとでていなければ、この「物語」の肝は描けない。
もっといえば、日本人には二種類いるのだ。上京するやつとしてないやつと。それは能力で業で避けられない血でもある。
だからこそ、ドラマスペシャル版ではあいまいになっていた大分の美術高校でのプロセスが、きちんと描かれている。ほんとうに母親が好きで、親孝行ならば、ずっと筑豊にいるはずである。
筑豊の街角のロケーション撮影にしても、いちばん煤けててよかった。それまでのドラマはどこかの別の国の描写だったのに、70年代の筑豊の小倉や空気がよく出ていたよ。
ほんとうに細かいディテールで言えば、あのころの小倉のラーメン屋に替え玉のメニューはなかったはずだし、セリフで「小倉の製鉄所の火が消えた」とあるのは、違和感がある。もちろん小倉にも住友の高炉はあったけれど、象徴的に火が消えたというのなら、八幡でしょう!
これはきわめてレアなことなのだが、主人公の年齢と自分の年齢を完全に重ね合わせて、自分の記憶のアーカイヴをさらっていた。
風俗としての小道具、美術の使い方もすばらしく、よく、こんなものを見つけてきたってシーンがたくさんある。いくつもの公衆電話から、ポケベル、アンテナを伸ばす携帯をはじめ、ベルトコンベア式のドライブゲームなど、直撃状態だ。
大分の高校でさぼり癖がついた主人公のように、おれも福岡市の予備校通いでさぼり癖がついたし、東京の大学でもやもやしてさぼりまくって、親に仕送りを無心するあたりなんて、まったく他人事ではなく、ほんとうに恥ずかしくて、申し訳なくて、「ああ、すみません。ごめんなさい」と、隠れてしまいたくなっていた。
主人公は1年留年して卒業しただけでも優秀だが、おれは1年半留年して、卒業できなかったもんな。
なによりこの映画の肝は内田也哉子と樹木希林の親子二代出演だ。
娘といってもいい、初々しいオカンと、死の床につくオカンが、おそろしいほどシームレスにつながっているのだ。
中学のときか、高校のときか、高校生だったころの母親の写真を見たことがあって衝撃を受けた。わが母親ながら、ほんとうに美しくて、こんな人を嫁にした父親にちょっとした憤りさえあった。
マザコンというべきか、DNAのちからというべきか、やっぱり、母親みたいな女は好きなのだ。
内田也哉子のオカンを美しく撮りつつ、オカンとボーイフレンドの不倫めいた旅行につきあったエピソードなど、きっちりと挿入しているのは、すでに当時の母親の年齢を超えてしまった主人公が、思い出したエピソードなればこそだろう。
そのときの女としての若さ、かわいさをしっかりおさえているから、病院のベッドの上で抗がん剤に苦しみ、全身を足の先まで曲げた姿が胸をつく。
そして、あの母と息子がはじめて手をつなぎ、東京の街の中を歩く絵が、心に響くのだ。
故郷を倦み、故郷をあとにしたから人間だからこそ、心理的には故郷を大切にしているものだ。故郷は居心地が悪いのだけれど、故郷というバッファがなくなることへのおそれはある。だから、母という故郷が東京に来ることで喪失する故郷への思いをきちんと表現しなければ、この作品の価値はなくなってしまう。
そして、その思いがあるからこそ、北九州の象徴であるオトンの存在が輝くのだ。船の模型をはじめ、あらゆるものを完成できない父親。自分の人生だって、どうなるかわからないけれど、きっと完成できると思いたいということが、かれの去り際のセリフから伝わる。
ひたひたとくるやるせなさと居場所がどんどんなくなってくる気持ち、それが自身の少年時代へと顔を向けさせ、自分との対話に通じる。
母親を看病するシーンは多いのだけれど、母親がほんとうに苦しんでいるとき、その場から半身を逃がしているやるせなさ。ウサギのエピソードをはじめ、生死と人の距離感など、原作にあるエピソードの切り取り方が、絶妙なのだろう。後半のウサギのメタファーなど、ぞっとする部分もある。
息子は母親になんと残酷なのだろう。そして、母親はなんと悲しく包容力があるのだろう。
※こちらのエントリーもどうぞ。


